本を読むと馬鹿になる?(後編)
ずばり、どんな読書が良い読書や本なのか?
それはまさに、前編に記したことの反対をすれば良いと思う。
例えば1の無選別な読書ほど時間を無駄にするものはないということ、であれば、いかに悪書や凡俗の駄書を選ばないこと、言い換えれば精選しろ、ということだ。
そしてそのヒントに、ショーペンハウエルは「古典の読書にまさるものはない」と言っている。
それは、歴史という積み重ねに裏打ちされ、尚かつ歴史上から消えない本質性がそこにはあるということだろう。
言うならば、出ては消えて行く多くの駄書とは全く、その意味が違うということだ。
さらに2の知識が偏り、専門化、先鋭化されることの危険性を回避するには、自分の考えとは逆のものも選択に入れるというのも良いかもしれない。
ショーペンハウエルは「主観で見たものは客観で、客観で見えたものは主観で見直すべきだ」と述べ、彼岸側から見る重要性を説いている。
自分に都合の良いものだけでなく、様々な角度から見なければ、物事の本質は歪曲してしまうということだ。
そして3の、受動的になり、自ら思考する能力が低下することについては、読書を目的にせず、手段にすることで、能動に変えられるのではないだろうか。
要するに、読書好きは、読書をする事が目的であって、実践的に生かすことを目的としていないから、どうしても受動的になる。
その結果、思考力が低下するのならば、あくまで読書は手段としてまでに抑える必要があるのではないだろうか。
例えば、こういうことをしたいから読書が必要というのであれば、それはあくまで能動的であり、読書が手段化されるわけだ。
前編で紹介したショーペンハウエルの言葉、「概念(知識)が、経験を先行するべきではない」というのもそこに繋がるの話で、あくまで経験が重要であって、概念(この場合読書)は、その目的のための補助的手段であるべきだということだ。
こうして、考えれば、読書は成長や実践を行う上では極めて大事である一方で、大きな害にもなるというのが分かると思う。
そして、そうした観点を持って、子どもにはバランス良く読書をさせたいと僕は思うし、何より本を精選をするためには、僕ら親達がそれらを理解しなければならない、そう強く感じるのだ。
ただ、そんな精選に悩んだら、やはり「古典を読め」(子どもなら民話や神話といった童話)というのが、一番なのかもしれない。
そして、その古典は出来れば日本の古典や童話であってほしいし、その古典の延長線で書かれた思想史や哲学なんていうものも、経験を積んだ大人には良い選択ではないか、そう僕は思う。
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