
「素敵な家に住みたい、広い部屋に住みたい、持ち家が欲しい」そんな声はよく聞くのだけど、「豊かな【暮らし】をしたい」という声はなぜかあまり聞かない。
本来ならば、家というのは【下部構造(インフラ)】であり、暮らしは、【上部構造(スープラ)】なので、双方には優先順位の付けようが無い密接な関係がある。
にも関わらず、家にその重心を置きすぎるというのは、どうも僕の感覚からすれば違和感を覚えざるをえないのだ。
もちろん、家は豊かな暮らしをする上では、絶対に欠かせないものだ。しかし同時に、家を建てられたとしても、豊かな暮らしが実現するわけでもない。
あくまで豊かな暮らしをする上での基盤(下部構造)があるだけに過ぎないからだ。
特に問題なのは、その重心が偏りすぎた結果、立派な家に住んでいるけれど、そのローン返済などで、生活は荒んでいる、という方が多いことだ。
それでは本末転倒ではないのか?と僕はいつも首を傾げてしまう。

ただ、家というものが、暮らしの基盤であることは言うまでもなく、豊かな暮らしのためには、それ相当のふさわしいものがなければならないのも事実だ。
すなわち、この辺りの平衡(バランス)をどう取るのか、ということが重要なのではないか、そう思うのだ。
やや話が逸れるかもしれないが、ここで疑問なのは、なぜ日本人は、道路などのインフラ整備(公共事業)には、後ろ向きにも関わらず、家というインフラには、過剰なまでも固執するのか、という矛盾だ。
もしも、家というものを重要視しているのならば、道路などのインフラ事業もまた重要視すべきであるし、道路(公共事業)を軽視するのならば、家もまた軽視されなければならない存在ではないのか。
正直、僕の目には、明らかな矛盾に思えてならないのだが、どうやらそこには、「他人事」という背景があるのかもしれない。
要するに、自分の住むインフラは大事だが、国が造るインフラは無駄だ、そんな感覚なのだろうか。
しかし、そもそも国家とは国の家、すなわち、「国民の家」である。
ともすれば、本来ならば、他人事どころか、自分の家と同等の価値を持っても良いのではないか、そう思ってしまうのだが・・・・。

さて、話を戻すと、こうした矛盾の背景には、やはり「ヴィジョン無き暮らし」があるように思える。
要するに、「家さえ持っていれば安心」という漠然とした表象にしがみ付きたい、そういう感情が優先され、どんな暮らしをしたいのか、というヴィジョンはほとんどないということだ。
今後、家を建てたい、そんな方は特に、下部構造(家)というものは、どのような上部構造(暮らし)をしたいか、そこ無くしては、本末転倒になるということを念頭に置き、ぜひ、そのバランスをうまく取っていただきたいと思う。
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ヨーロッパでは、デザインというのは、素材や技術同様か、それ以上に価値があるものとして認識されていますが、果たして日本ではどうでしょうか?
素材や技術は、ある程度許容しても、デザインに関してはそれほどの価値を見いだしているとは言えないように思えます。

では、なぜ日本人はデザインに価値を見いださないのか?
それをひも解くに辺り、日本とヨーロッパの歴史的背景というもの顧みなければなりません。
まず、ヨーロッパでは、トーネットを初めとする1800年代後半から「デザイン」というカテゴリーが確立されてきました。
椅子で表すのならば、デザインする者と造る者の役割が分担されてきたのです。

もちろん、デザインする者が造れないわけではなく、ウェグナーのように、家具職人として優秀なデザイナーも多くいますし、マイスターなどとよばれる方々も、デザイナー以前には、優秀な職人であったとも言えます。(そのまま職人の方も多くいますが)
しかしながら、それはデザインを行う上で欠かせない過程であったとも言えるのです。
では、我が国日本ではどうでしょうか?
デザインという観点、概念が生まれたのは1900年代中盤。椅子文化もそれ以降です。
それ以前の日本は、「家具や家は職人が造るもの」そう考えられてきたのです。(大きな建造物、例えばお城などには、設計士のような立ち位置の者がいましたが)
それ故に、デザインという意識よりも、素材や技術に重点が置かれるようになったのです。
そういった感覚が長年継承されて来たことは、もちろん、決して間違いではないと思います。

しかし一方で、それが正しく継承されてきたわけではない、という側面もあるのです。
例えば、その職人の技術は、功利主義、合理主義などによって、年々劣化し、また優秀な職人も減ってしまいました。
その結果、粗悪なものが出回り、本物の素材、技術で造られたものは影を潜めてしまいました。
当然、そうなると、デザインなどはさらに後回しになっていきます。
しかし、近年それが徐々に見直されつつあるのも事実です。
良い素材、良い技術、そこに目を向ける人々も増えて来たのです。(おそらく20世紀後半の反動でしょう)
ただ、あくまで全体として、それが素材や技術といった、今までの日本的の感覚が主流であって、欧州のようにデザインまで踏み込み、価値を見いだすまでには至っていないようにも思えます。
もちろん、まだ我が国では、「デザイン=価値」というには歴史が浅く、それを構築するためには、相当な時間を要するのかもしれません。
しかし、欧州に見習えとは言わないけれども、今後は素材→技術→デザインと、その価値を一般的に認識し、浸透する時代が来てくれればと思います。
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さて、前編では、生存のための闘争から抜け出したはずの現代は、新たな道徳律を作る事はできず「生活のための闘争」に明け暮れてしまっているのではないか、そしてそこから抜け出さなければならないのではないか、そんな話をしてきたけれど、今回は、その実践方法を述べたいと思う。

まず僕が心がけていることは、
1、【目先のお金は追わない】
古の言葉に「目先の小利に惑わされるべからず」や「安物買いの貧乏人」などという言い伝えがあるように、短期や名目で考えるのではなく、長期に実質でみると、目先の生活だけに追われなくなる。
2、【合間を愉しむ】
仕事や生活をしていると、どうしても拘束される時間も増えるのだけど、合間合間には案外、時間があるもの。
「暇」の語源は合間、隙間、そんな意味らしいけれど、そういう時間を上手く使うことで、自分の理想も捨てずに済むし、ゆとりも生まれる。
3、【ドキドキ、ワクワクする刺激よりも、日々の何気ない幸せを優先させる】
若いときは別だけど、いつまでも刺激ばかりを追っていると自分を見失うもの。安定した日々を心がけることで、腰を据えて物事の本質をしっかり見極めることもできるし、何気ない幸せがどれだけ大切かに気づく。
4、【自分の死を想像する】
ケインズが本来言わんとしていたことの一つとして、死後に目的を設定することは、「ニヒリズムからの脱却」でもあったと思う。
言い換えると、死ぬまで達成されない目標を持つことこそ、人が生きる上で重要なテーマであるということだ。
また、世代を超える持続的目的こそ、国民国家の継続には欠かせない要素だ。
そしてそれらは、自らの死を想像することはなくしては実現できないし、逆にそれを意識することで、瞬間だけに意識が傾かなくなる。
5、【余計な生活感を排除する】
生きていれば、生活感というのは嫌でも出てしまうものだけど、必要以上に出す必要もない。むしろ、極力そういったものは必要最低限にとどめる努力をすることが、生活からの脱却に繋がっていくし、なにより雑多な環境が改善されれば、精神的に余裕も出てくる。
6、【仕事や家事は遊び(ゲーム)に変える】
生活のためのお金を稼がなければいけない、生きるために家事をしなければならない、そう思うと余裕も無くなるし、生活に押込められてしまう。
「仕事や家事は遊び」そう思いながらゲーム感覚でするように心がけると、気も楽になり、また生活という現実から少しは遠のいて行く。

もちろん、これらは僕が意識していることであって、全てが完璧に出来ているとは到底言えない。
ただ、「生活から抜け脱したい」という思いから、このようなことを考えながら生きているというわけだ。
まあ、ちょっと小難しい話になってしまったけど、結論を言えば、「生きるためだけに生きない」ということなのだと思う。
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「生活」というのは、生きるための活動なのだけど、同時に僕の中では、「思い描く理想を押しつぶすもの」という認識もある。
それはたぶん、僕だけに関わらず、大なり小なり、人が生きている以上、避けては通れないのだとは思うのだけど、かといって理想を捨て、その生活にどっぷり漬かってしまうということだけは避けなければとも思うのだ。

ただ、現実は生活をしなければならない。もっと露骨に言えば、食べて行かなければならない。
そのためには、生活のために自分の時間を費やさなければならないのだけど、その時間があまりにも多くを占めてしまえば、理想もへったくりもなく、ただ「生活のために生きている」そんな人生になってしまうだろう。
もちろん、それが人の人生だと言われてしまえばそれまでなのだけど、やはりそれだけだと僕は満足できない。
だからあえて僕は、絶対に抜け出せない生活からの脱却という矛盾を、自分の中で目標にしているのだ。

ちなみに、1930年代に、イギリスの著名な経済学者である、ジョン・メナード・ケインズが、このように述べている。
【自分たちの孫の世代には、経済的、物質的問題はほぼ解決のめどが立つであろう。
人類は、史上初めて、生存のための闘争から解放されるのである。
そのとき、新しい道徳律が現れるであろう。その新たな道徳律とは、「目的性」である。
目的性とは、「われわれが、自分たちの行動の質や周囲の環境への直接的効果よりも、自分たちの行動の遠い将来における結果に、より関心を持つ事であり、自分の生きている間ではなく、後の世代において実現されるであろう目的を設定し、それに向けて活動することである。
「目的性」のある人は、常に実現すべき目的を後世に設定し続けるから、その活動は持続的なものとなる。
「目的性」とは、人間の時間的視野を常に長期的にし、それによって活動を世代から世代へと持続させることなのである】

ケインズが言うように、確かに僕らの世代、僕らの国は、生存のための闘争からは抜け出せたのかもしれない。
しかし、新たな道徳律が生まれるどころか、単なる「生活のための闘争」に明け暮れてしまうようになったのではないか、そんな風にも思うのだ。
当然、ケインズが言う目的性などとはほど遠く、目先の生活ばかりを追い、夢も希望も、はたまた「美しい暮らし」も出来ずらくなっているのではないだろうか。
そんな状態(社会)だからこそ、僕らは、「生活から抜け出す」ための努力をすることが今、大事になってくるのではないか、そう思うのだ。
では、次回は、そんな「生活から抜け出す」僕なりの方法、考えを述べたいと思う。
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