アルヴァ・アアルトの謎に迫る(前編)
今回はちょっとマニアックな話(いつもじゃないか!と突っ込みを入れられそうだけど)
アルヴァ・アアルトの家具の、年代の謎について考察をしていきたいと思う。
まあ、アアルトの魅力はやっぱりヴィンテージ。それも年代が古ければ古いほど、その味わいは深く、それだけに人々を魅了してやまないのだと思う。
しかし、その年代を正確に見極めるというのは、プロのバイヤーでも困難であり、また全てが解明されているわけでもないのだから、素人で見分けるなど、ほぼ不可能だろう。
もちろん、最近ではカーサブルータスなどに簡単なアアルトの年代見分け的な物も掲載されているのだけど、それだけでは当然、アバウトにしかわからない。
特に一番謎が多いのは、アアルトの代名詞でもあるLレッグ(通称アアルトレッグ)が戦争で生産が出来なくなり、その代用として考えられ、生産されたフィンガーレグの期間だ。
まず一般論(バイヤーの間では)として、このフィンガーレグは、フィンランドの戦後、1947年から50年のうち、約1年半製造していたとされているのだが、この地点で僕は疑念を抱いている。
それは、たった1年半しか製造されていない割に、中古市場で出回る数が多すぎるという問題だ。
これは30年代〜40年代前半だと言われている物と相対的に比較しても明らかで、不自然に思っているバイヤーも多いはずだ。
【※フィンガーレグとは、指を組み合わせたように、二本のパーツで製造されたレグで、Lレッグの代替として、その製造過程が比較的簡単であったことから、社会情勢が混乱していた1940年代に作られたモデル】
この製造期間と疑念が解明されない限り、その前後のモデルの年代もまた解明することはできない。(フィンガーの製造の入り口と出口がわからないわけだから)
というわけで、そのフィンガーレグについて、当時の時代的背景など総合的に勘案し、推測しながら製造期の仮説を作ることで、その謎を解き明かして行こうと思う。
まず当時の歴史的、時代背景を書き出し、分析、推測してみよう。
『1939年に始まった対ソ連の戦争(冬戦争)を約半年あまり行い、多大な被害を被るが、何とか独立を維持』
この戦争が短期間で終結していることから、アルテック(正確に言うとコルホネン社)が家具の製造を完全に中止したとは思えない。ただし減産していることは間違いないだろう。
『1940年には、物資不足に陥り、またソ連の脅威からドイツと密約を交わし、ドイツ軍の駐留とドイツからの物資の輸入を開始する』
この時期になると、徐々に物資が減り続け、Lレッグの生産過程が取れなくなっている可能性がある。
ということは、この近辺から既に、フィンガーレグを製造し始めた可能性が高い(Lレッグと並行してるかもしれないが)
『1941年には再びソ連と開戦する。(継続戦争)』
おそらくこの地点では、人材不足と物資不足から、完全にフィンガーレグ、もしくは家具の生産自体が滞っていたのではないだろうか。
『1943年には、ドイツが劣勢となり、フィンランドは枢軸国(ドイツ)と距離を置き、ソ連と講和に持ちこもうとするが、それがドイツの怒りを買い、経済制裁を行われ、食料などの物資を止められてしまう』
この経済制裁が、アルテックやその他の産業(軍事以外)を完全に停止させた可能性が高い。
『その後、ドイツの許しを請うて、物資の輸入の再開にこぎつけ、最悪に危機は避ける』
『1944年には、ドイツがいよいよ劣勢となり、再びフィンランドはソ連との講和を打ち出すが、これもソ連の厳しい条件によって頓挫』
『結果、戦争はさらに激化し、フィンランド第二の都市、ヴィボルクが陥落』
第二の都市が陥落するような状況化では、国は極度に混乱し、また資金難に陥り、家具の生産どころか、そんなものを作っても売れるような状況ではなかっただろう。
当然、この期間、アルテックが家具の生産をしていたとは思えない。
『その後、フィンランドはドイツに援軍と追加物資を頼み、なんとか防衛線を守り抜くと、徐々にソ連を押し返し始める』
『しかし、ただでさえ物資不足に悩んでいたフィンランドは、このまま戦争を継続することが困難な状況であり、またソ連もドイツにその兵力を費やし、また資源がないフィンランドへのリスクを避け、再び講和への流れが出来る』
『同1944年9月、フィンランドはソ連とモスクワ休戦協定を結び、3億ドル(現在のお金に換算して、約2兆円前後)というフィンランドという小国にとっては莫大な金を支払い講和』
『ソ連との休戦条件にフィンランド国内からドイツ軍を追い出すことが決められていたため、止む終えず味方であったドイツ軍とラップランド戦争を起こす』
『そして、ラップランド戦争を終わらせ、ようやく1947年にパリ平和条約で国際社会に復帰する』
ラップランド戦争での被害は継続戦争に比べ小さかったが、そもそも大損害を受けたところに追い打ちを掛けられ、また多額の賠償金をソ連に払っていたことを考えると、経済状態としては最悪だったのが、この1945年前後2年ほどだったのでないだろうか。
となると、この間にLレッグを復活させるのはもちろん不可能であり、せいぜい戦後少し経ってから、フィンガーレグでの生産再開にめどを付けた程度だろう。
また、元々生産能力が低かったフィンランドが、このような状態から戦後復興を早々に出来るとは思えないので、再生産を軌道に乗せるには最低でも3年は要したはずだ。
そして国の状態が安定し始めた1947、8年からフィンランドの供給不足(インフレ)の解消のため、フィンガーレグを大量生産化(Lレッグだと大量に生産出来なかったため)し、しばらくはそれを続けていたのだろう。
ただし、そもそもLレッグは、アアルトのアイデンティティーでもある。
アアルト自身がフィンガーレグをいつまでも作り続けるとは考えづらく、物資と労働条件が整った地点ですぐにLレッグに切り替えていたと考えるのが自然だろう。
そう考えると、フィンガーレグの出口が50年前後と、おおよその予測が出来るのではないか。
ただ、これはあくまでフィンランドの時代的背景から推測したに過ぎず、根拠が希薄だ。
ということで、後編はその物的根拠を交え、その謎をさらに解き明かして行こうと思う。
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